*1968年:作家賞=ジェームズ・クリュス

1926年(~1997年)、北海にうかぶ小さな島、ヘルゴラント島のエビとり漁師の息子として生まれた。クリュスは、ハンブルクの南東にある師範学校で学んでいるが、教職についたことはなく、第二次大戦の最後の年をドイツ空軍兵として送った後、作家としての生活を始めた。

代表的な作品

1956年「ザリガニ岩の燈台」(植田敏郎訳 偕成社)。1958年「風のうしろのしあわせの島」、1959年「あごひげ船長九つ物語」、1961年「フロレンティーネのいたずら日記」、1962年「わらいを売った少年」、1964年「パウリーネと風の中の王子」、1965年「マルチンのはつめい」(植田敏郎訳 講談社)。絵本「ながいおはなのハンス」(スタシス・エイドリゲビシウス え あまぬまはるき やく ほるぷ出版)その他多数。

それぞれの作品の「訳者のあとがき」は、大変興味深く、参考になります。クリュスの作品の根底は、いつも自由と平和、ユーモアと寛容に満ち溢れています。また、自ら、エーリヒ・ケストナー、ハインリヒ・ハイネ、クルト・トゥホルスキーの三人の名をあげ、継承者だと。

「ワシとハト」

ジェームズ・クリュス作 大塚勇三訳 岩波書店 19677月第1刷発行 19917月第3刷発行

一羽のハトが嵐にあい山々の合間に迷い込んだ時に、大きい一羽のワシがハトをめがけて飛び降りてきた。ハトは間一髪というところで、狭い岩の裂け目に逃げ込んだ。岩の裂け目の奥深くの壁は軽い小石でできていることに気がついた。しっぽを強くふったら、小さい穴を広げることができるかも知れない。それには時間がかかる。ハトの頭に、あの※「アラビアン・ナイト」に出てくるシェラザードのことがぱっと浮かんだ。シェラザードは、千一夜の間お話を話し続け、自分の命を助けた。2時間もあったら潜り抜けられる位に、穴を大きくできるとハトは考えた。

ハトがワシに話したお話

◇、クモのお礼は、人間にありがたみがない ◇、むほんをおこしたロバの話 ◇、ミソザサイとワシの話、または蚊とゾウの話 ◇、びんにはいったワシの話 ◇、戦争と平和とはまるでちがう ◇、チョウセンネズミと階段の話 ◇、森のなかの目ざまし時計の話 ◇、マーラおばさんとむすこのブークの話

※「アラビアン・ナイト」について(ウィキベディアより)

中世イスラム世界で形成されたアラビア語の説話集。中世ペルシア語であるパフラヴィー語で記された(千物語)がアッバース朝期に翻訳されたものとされる。いくつかの発展段階を経て、19世紀に現在の1001夜分を含む形で出版された。18世紀初頭にフランスのアントワーヌ・ガランがヨーロッパで「発見」し、シリア系写本を使ってフランス語訳を行い、ヨーロッパに広く紹介された。(「千夜一夜物語」の外枠のストーリーは、シャーリアール王に連夜おとぎ話を語って聞かせるシェヘラザードの話である。「シンドバッドの冒険」「空とぶじゅうたん」「アリー・ババと40人のとうぞく」他)

クリュスの作品のほとんどは図書館でしかみることができませんが、装い新たに三作品が出版されています。人間の幸福とは?・・・

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*1970年:作家賞=ジャンニ・ロダーリ

1920年、北イタリアの貧しいパン屋の息子として生まれる。彼が9歳の時に父は死亡。1938年―43年は小学校の教師をしていたが、第二次世界大戦中はレジスタンス運動に参加。戦後はジャーナリストと作家活動をしながら、子どもの教育に再び深い関心をよせていく。その中から生まれた1951年の「チポリーノの冒険」は日本でも1956年に出版された岩波少年文庫版(杉浦明平:訳)は‘96年で既に40刷も発行されている。物語は、「わがままなレモン大公の治める野菜とくだものの国。タマネギのチポリーノ坊やは無実の罪でとらえられた父を救い出すために、サクラン坊や、イチ子、インゲン小僧などの助けを借りて大活躍する話。そして、自由な国を求めて・・・。」

この作品に登場する野菜と果物が人間の名前だとしたら・・・。ロダーリがその時代に、できうる発表を児童文学の世界に求めたもの。それは社会風刺だったのだろうと。しかし、その後の作品から、もっと幅広い、ユニークな題材や、ファンタジーな作品を発表している。

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日本語に訳された作品から

「チポリーノの冒険」杉浦明平訳、岩波書店(岩波少年文庫)「青矢号のぼうけん」杉浦明平訳、岩波書店、「うそつき国のジェルソミーノ」安藤美紀夫訳、筑摩書房、「ジップくん宇宙へとびだす」安藤美紀夫訳、偕成社

1967年「電話で送ったお話」鹿島卯女編、鹿島研究所出版会→1983年「もしもし…はなしちゅう」安藤美紀夫訳、大日本図書→2009年「パパの電話を待ちながら」内田洋子訳、講談社

1971年「空にうかんだ大きなケーキ」安藤美紀夫訳、講談社→2006年「空にうかんだ大きなケーキ」よしとみあや訳、汐文社

「猫とともに去りぬ」関口英子訳、光文社、「二度生きたランベルト」白崎容子訳、平凡社、「幼児のためのお話のつくり方」窪田富男訳、作品社、「マルコとミルコの悪魔なんかこわくない!」関口英子訳、くもん出版、その他。

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「パパの電話を待ちながら」の作品に収められている”まちがいだらけのお話”は誰もが知っている赤ずきんを間違って話すおじいさん。これはおじいさんと女の子の漫才みたいなやりとりで笑ってしまいます。勿論その他の話も。この作品は、3回も出版されています。

「空にうかんだ大きなケーキ」この作品も2006年に汐文社より出版されたものが最も新しい。テンポのいい文章に誘われて読める愉快なお話です。

「猫とともに去りぬ」光文社古典新訳文庫シリーズの第1弾として取り上げられたロダーリの作品です。

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*1972年:作家賞=スコット・オデール

1898年、カルフォルニア州ロサンジェルスに生まれ、大学を卒業すると、新聞記者、雑誌編集者など、様々な職業についた。また、第二次世界大戦中は、米国空軍で兵役にも服している。オデールが作家として名声を得たのは1960年に出版された「青いイルカの島」(藤原英司:訳 理論社)が、ニューベリー賞を受賞してからだという。その後、

1966年「黄金の七つの都市」(大塚勇三:訳 岩波書店)

1967年「黒い真珠」(小野章:訳 評論社)

1970年「ナバホの歌」(犬飼和雄:訳 岩波書店)等々がある。

1989年に亡くなるまで書いた作品のほとんどは若い読者向けの歴史物語だった。

Nabaho 「ナバホの歌」

スコット・オデール:作 犬飼和雄:訳 岩波書店 19747月第1刷発行

物語の最後に作者が「ナバホの歌」は、1863年から1865年の二年間におよぶナバホ族の歴史をもとにして書いたものであると記載されてあった。アメリカのアリゾナ州に住んでいたインディアンのナバホ族が、白人にとらわれて故郷の地を追われるという歴史的事実を背景にナバホ族の少女(アカルイアサ)が果敢に生きていく物語。

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子どもたちにとって、インディアンの歴史について知る切っ掛けになる作品です。映画「西部開拓史」(ジョン・ウェイン)は、インディアンを襲撃していく話でした。「幌馬車」もそうでした。1990年に作られた映画「ダンス・ウイズ・ウルブズ」は、敵役のインディアンとの絆を優先した白人の男(ケビン・コスナー)の物語でした。

スコット・オデールが72歳で発表した「ナバホの歌」は、それらの映画で描かれなかったインディアンの歴史を、ナバホ族に焦点を当てて書いたものです。当時のアメリカ社会に受け入れられたのでしょうか。児童文学故、映画「ダンス・ウイズ・ウルブズ」のような反響(アカデミー賞受賞作品)に及ばなかったとでも。歴史の重みを痛感したスコット・オデールが生前に設立した賞こそ、彼の心情をものがたっているような気がします。

http://www.yamaneko.org/bookdb/award/us/odell/

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*1974年:作家賞=マリア・グリーペ

1923年、スウェーデンのストックホルム近郊の町ヴァスクホルムに生まれる。ストックホルム大学で文学と哲学を学んだ。1954年のデビュー以来、書き続けている。その作品群はファンタジーと現実的な物語に大別されているが、それは、全く切り離されたものではなく、どちらが主流になって書かれているかで二分されているようである。

1962年「ヒューゴとジョセフィーン」北国の虹の物語2、1964年「忘れ川をこえた子どもたち」(冨山房)―大久保貞子:訳。「夜のパパ」「夜のパパとユリアのひみつ」(ブッキング)―大久保貞子:訳。

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「忘れ川をこえた子どもたち」

マリア・グリーペ:作 大久保貞子:訳 ハラルド・グリーペ:絵 冨山房 1979年第1

この作品の原題は「ガラス職人の子どもたち」なのだそうで。これをもっと分かりやすくすると、“忘れ川をこえたガラス職人の子どもたち”ということになる。忘れ川という言葉が出てくるのは第二部の願いの町から。第一部は、ガラス職人のアルベルト一家の紹介。夫のアルベルト、妻のソフィア、子どもは、幼い姉のクララと弟のクラース。アルベルトの作るガラス器はこの上なく美しかったが、商売は下手だった。その為、生活にゆとりはなく、ソフィアも近くの農家へ出かけて働いた。夫はガラス作りに夢中のあまり、妻の気持ちを慮ることができなかった。そんなある晩、ソフィアは明かりもつけずに、窓辺で泣いていた。・・・・。

題名に出てくる子どもたちとは、クララとクラース。この二人の子どもたちの周囲の大人たちによって翻弄されるのですが、忘れ川をこえると、過去の生活を忘れて、何も思い出さない設定になっています。目の前にある現実を受け入れて動き回りますから、子どもたちが可哀想という感情移入する間がない。只、どうやってこの状況から脱出できるのかという点に興味を持つことになります。

さて、その周囲の大人たちの中で、ガラス職人の夫婦とエンスケスタード(願いの町)に聳え立つ館の領主夫婦の心の有様は、それぞれのアイデンティティー(identity)をぶつけて、子どもたちに答えを求めていくのですが。その牽引となっていくのも、また解決していくのもファンタステックに、・・・。

(参考:訳者のあとがきより)

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*1976年:作家賞=セシル・ボトカー

1927年、デンマークのフレデシアに生まれる。銀細工師として働きながら、1955年に大人向けの詩集を出している。その後、ボトカーの代表作「シーラスと黒い馬」は1967年に。以後シーラスのシリーズを長年にわたって書き続けている。今、現在は2001年の14巻が最も新しい。

評論社出版の初版を1981年から訳されている橘要一郎氏が、2007年に14巻「シーラス安らぎの時」を訳されている。その巻末のあとがきに、作家ボトカーさんも2007327日で満80歳になったことが記載されてあった。また、このシーラスの物語がこの14巻で完結させるかどうかは、原作者次第なのだという。でも、14巻は完結編と称してもいい内容にもなっているとも。

1、「シーラスと黒い馬」“舳先の角ばった、おかしな格好の小舟に乗って、その少年は川をくだってきた。・・身体は小舟の底に寝かせてある。・・遠くからは、どう見てもカラっぽの舟としかうつらない。”旅芸人の一座から逃げ出した少年シーラスの物語はここからはじまった。馬商人に出合い、ひょんなことで黒い馬を得た。この黒い馬と共に、シーラスは様々な人たちに出会う。

2、「シーラスとビン・ゴーヂック」3、「シーラスと四頭立ての馬車」4、「シーラスの家作り」等、等と14巻まである。

作家ボトカーは、“私がシーラスを好きなのは、自分の欠点を意識しているからなのでしょうか?”と自問自答しています。また、シーラスは作家の4人の曽祖父たちを全部合わせた人物だとか。それは、厳格な牧師であったり、発明家だったり、民間武装船長だったり、家族の歴史のことは何も知らない捨て子だったりと。そのどの人物も、シーラスの中で生きているということなのでしょう。

シーラスが少年から青年へと成長していく姿に、作者の言葉には嘘はなかったように思います。登場人物の多くは、貧困に喘ぐ人々や、社会から見捨てられた人々、障害を持つ子どもたちを描いています。

その人たちの動き、心理描写を、実にさらっと書いています。喉に引っかからない程度です。児童文学としての役割を果たしながら。

本の表紙はスベン・オットー(1978年:画家賞「クリスマスの絵本」)の絵でしたが、表紙に収まりきれなかったような気がして・・・。

Sirasu

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*1978年:作家賞=ポーラ・フォックス

1923年ニューヨークー市生まれ。アメリカ、キューバ、カナダ等で教育を受け、テレビの脚本を書き、教師やジャーナリストとしても活躍。最初の作品は1966年「モリスのたからもの」(清水真砂子:訳、大日本図書)をはじめとして、邦訳作品は1968年「きのうのぼくにさようなら」(掛川恭子:訳、あかね書房)1973年「どれい船にのって」(ホゥゴー政子:訳、福武書店)1984年「片目のねこ」(坂崎麻子:訳、ぬぷん児童図書出版)1993年「西風がふくとき」(清水奈緒子:訳、文研出版)1995年「イーグルカイト」(村田薫:訳、文渓堂)等がある。

「どれい船にのって」

ポーラ・フォックス:著 ホッゴー正子:訳 和泉賢一:絵 福武書店 1989年初版発行

フォックスの唯一の歴史小説とも言われている。嘗て、テレビドラマで放送された「ルーツ」の主人公、黒人少年クンタ・キンテが奴隷船に乗せられて、残酷な目に遭うシーンがあったが、それを、まざまざと思い出した。この「ルーツ」の原作者アレックス・ヘイリーがピューリッツアー賞を受賞したのは1976年である。そして、翌年にテレビドラマ化された。

フォックスの「どれい船にのって」は1973年に出版されている。主人公は白人少年ジェシ。ジェシも、突然、連れ去られ、気がついた時は船の上。ジェシは、奴隷船で起きている残酷な出来事をまるで内部告発するかのように、つぶさに語る。

ジェシは、普通の貧しい家庭の子ども。心が張り裂けそうに何度もなりながら耐えていく強さを持っていた。また、やさしい心も最後まで見失うことはなかった。

作者は、この重たいテーマを子どもたちにどうしたら理解させることができるか。それが、ジェシの質問形式だったのだろうと。この作品も、1974年にアメリカ児童文学ニューベリー賞を受賞している。

“かあさんにたのまれてお使いにでかけたぼくは、裏通りで二人のあらくれ男につかまってしまった。つれていかれたのは恐ろしいどれい船の上だった。・・・・”

<史実>

船名:月光号 高級船員:コーソン船長、ニコラス・スパーク航海士。 船員:ジェシ少年、その他の人々。船荷:奴隷:98名・・etc

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「くまとやまねこ」

Kunato 湯本香樹実ぶん 酒生駒子え 河出書房新社 2008年4月30日 初版発行

昨年の発売以来、今も人気のある絵本です。図書館では、いつも貸し出し中でしたから、いつかは見ることができるだろうと、ほぼ忘れかけていたのですが、一昨日、何気なく棚に置かれてありました。

ここで改めて紹介するまでもない位、多くの方が既に読まれていて、書評もたくさん寄せられているようです。また、作者自身のコメントも読むことができました。(アマゾン→)

くまとやまねこの情感溢れるシーンに、引き込まれて、自分と重ねた人も多かったのだろうと。作者が言うように、大事なものを失う喪失感は、自分自身の一部が死ぬことに等しいと。

”この絵本のなかのくまが、悲しみに閉じこもり、でもやがて外に出かけていったように、必ず死んでしまった自分自身の一部も、またよみがえる時がくるんだという”

みんながみんな、くまのように蘇るといいですね。また、作者のコメントから、誠実な人柄が偲ばれました。

酒井駒子さんには、いつも感心しています。時が悲しみを癒すという流れをモノクロで描き、くまの深い悲しみは、墨のような黒を全面的に使い、最後までが、モノクロトーン。けれど、やまねこのバイオリンの音色に目を閉じて、くまの心がやがて開き始めると、ほんの少しだけピンクの色がでてきます。絵本はやっぱり楽しいですね。

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*1980年:作家賞=ボフミル・ジーハ

ボフミル・ジーハ(19071987)は、まだ、オーストリア・ハンガリーの統治下に置かれていた南ボヘミア地方に生まれた。11年後の1918年には、チェコスロバキア共和国として独立。それも、当時の米国の憲法を手本にした西欧型民主主義国家として歩み始めたという。ところが、ナチス・ドイツの台頭に伴い、1939年にはドイツの保護領になっている。そんな国の歴史の中で、地方や町で教師をしていたボフミル・ジーハ。1956年には、プラハの国立児童図書出版所の所長になっている。

ジーハの子ども向けの作品は、やさしさでいっぱい。ビーテクはシリーズ三部作になっている。また挿絵も多く、ユーモアに描かれている。

1954年「ホンジークのたび」井出弘子、いぬいともこ:共訳 童心社、1973年「ビーテクのひとりたび」井出弘子:訳 童心社、等。

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参考文献:「世界各国現代史ダイジェスト」自由国民社 1995年第1刷発行

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*1982年:作家賞=リギア・ボシュンガ(ヌーネス)

1932年、ブラジル南部のベロタスに生まれ、その後、リオデジャネイロに移り、19歳の時、家を出て舞台女優として国内を巡業するようになった。また、ラジオやテレビ用の戯曲も書いていたという。

はじめて書いた子どもの本「仲間たち」がコンテストで賞をとり、1972年に出版された。その後も、1976年に「黄色いかばん」1978年「教母の家」1979年「綱渡り」1999年「手作り」と出版されている。

ラテン・アメリカの本は、子ども向きでも大人向きでも、その独特なマジック・リアリズムに特徴があるが、他の国々の文化がそれを受け入れるのは難しいと考えられているんだとか。それで邦訳されている作品がないのかも??

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*1984年:作家賞=クリスティーネ・ネストリンガー

1936年、オーストリア、ウィーンに生まれる。第二次世界大戦中の混乱の中で成長したという。その誘因の基をつくったとされるアドルフ・ヒトラーは、オーストリア出身。(1889年~1945年)ヒトラーはウィーンで画家を志し、美術大学を受験したが、二度とも受け入れて貰えなかった。8年後、ミュヘンに移住し、1932年、オーストリア国籍のままドイツ国籍を得た。やがて、ドイツの政治家に。19383月、オーストリアをドイツと併合させ、ヒトラーはオーストリアに行き、ウィーンや生まれ故郷で演説をしている。ヒトラー没後、1955年にオーストリア独立。

クリスティーネは、労働者階級の暮らす地域で社会主義者の娘として過ごしたという。そのクリスティーネが選んだ職業は作家やジャーナリストという文筆業だった。

1972年の「きゅうりの王さまやっつけろ」はドイツ児童図書賞を受賞し、また、1979年「みんなの幽霊ローザ」はオーストリア児童文学賞を受賞している。その他、多数の作品がある。また、邦訳作品も多い。

Konnrado 「コンラッド」

クリスティーネ・ネストリンガー:著 長谷川昌子:訳 創英社/三省堂書店 2001920日 初版発行

バーティ・バートロッティ夫人のもとに20キロもある郵便小包が届けられた。白い包装紙にくるまった大きな段ボール。思い当たるふしはなかったが、おじさんの30年分の誕生プレゼントかも知れないと、勝手に解釈。開けてびっくり仰天。缶の中にうずくまっていた謎の生物は口をきいた。「ハジメマシテ、オカーサン」度肝を抜かれたバートロッティ夫人の衝撃は並大抵ではなかった。出生証明書までついていた。出生日は19671023日、名前はコンラッド。

保護者各位・・・・・・・・当製品は従順で、扱い易く、問題なくご養育いただけることを保証致します。尚、最先端技術により開発された製品につき、生来の欠点というものは持ち合わせておりません。・・製品は日常の養育と保護だけでなく愛情を要する構造になっております。・・敬具。

◇これから始まる物語は、コンラッドを中心に、親子関係、子ども同士の付き合いといじめ、隣人たち。と、あらゆる人間関係を浮き彫りにさせていきます。それぞれが型にはまらない人たち。コンラッドは理想の子ども像?優等生で、言葉も丁寧、お行儀もいい。とにかく「いい子」なのです。

そんなある日、書留速達が届いた。品名「七才男児」は誤配によるもの、至急返送の用意をお願いしますと。近日中に回収をして、正規の注文主に渡すというのです。スリルとユーモアと教訓と、大人も子ども楽しめるお話になっています。

この本の狙いは、分かりませんが。もしかして、あのヒトラーのもとで養成された子どもたちを逆説的に描いたのだろうかと。それが、可能であること。

Kannzume_3   1975年「かんづめぼうやコンラート」1985年、佑学社 榊 直子:訳

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